◇読者の視点
今一度、昭和四年の小品「カフェ―対お茶屋・女給対芸者」の一節を引用しよう。
今に「深窓の佳人」という形容詞にあてはまるようなのは、芸者の中の選りすぐったものにだけ残るだろう。近代の女性が脚の美しさを強調している間に一番きゃしゃな、節くれだたない指を持つものは、芸者だけになってしまうだろう。僕は芸者がなるべく時勢に遠ざかって、そこまで退化してくれるのを望む。そして活動役者の名前なぞは知らなくても、お家流の字を習い、活花、茶の湯、和歌、俳諧、碁、将棋を習、徳川時代の島原の太夫のようになってくれるのを望む。
この小品は、「大阪朝日新聞」に掲載された。
谷崎はそれまでの掲載誌や作品の特徴もあって、女性に読者の多い作家であった。
それが、新聞にこのような記事を掲載したら、小説を読むような子女が、どのような反応を示したか、ということなのだ。
いや、子女のみならずとも、『春琴抄」の元ネタが、遊女であったときいたとき、あるいはこれを今読んでいる諸氏は、この当時の子女と同じような反応を示すのではないだろうか。
「深窓の佳人」を、あるいは「良家の子女」を、水商売の女、あろうことか、遊女よりも劣るような扱いをするなんて、と。
どうでしょう?
思いはしなかっただろうか。
ましてあの、美しい物語が、まさか、遊女を元として書かれたなんて、と。
とても受け入れられないのではないかと思う。
これが、『春琴抄』設定変更の理由ではないかと思う。
柳田国男は『妹の力』の「小野於通」(昭和十四年五月)で、小野おつうのことを「遊女云々」と記していることに対し、「遊女はひどいと今の人は考えるであろうが」と、書いている。
昭和十四年と、その十年前の反応が、それほど大きな違いがあったとは考えられない。
明治・大正・昭和の一般的認識の中にある「遊女」は、江戸期後半を通過してきた、その認識である。
いくら柳田国男が「今の遊女と違う」と書き続けたところで、民俗学に興味があって、柳田の文章を通読している学者・文人が、どれほど世にまぎれていただろうか。
また、郷土誌に「夕霧太夫」のことが書かれ、特集されていたからとて、それがどの程度の人間に読まれていたか。
「大阪朝日新聞」にこの文章を載せた時の読者の反応が、そのすべてを物語っていたのではないかと推察する。
それでなくても谷崎は、読者の言葉に一応耳を傾ける人であった。
たとえば『春琴抄後語』(『改造』昭和九年)にも、こんな記述がある。
春琴や佐助の心理が書けていないと云う批評に対しては、何故に心理を描く必要があるのか、あれで分かっているではないかと云う反問を呈したい。
一応耳を傾けるが、自分の主張も忘れない。受け入れられなければ反問・反論する。
あるいはまた、『饒舌録』に、こんな記述もある。
此の前東洋主義のことを書いたら大分方々から小言を喰ったのは意外であった。私はあれでも大いに東洋の肩を持った積りだったのだが、何ぞ図らん、亜米利加かぶれしているの、物質主義に堕しているのと云う攻撃を受けた。
もちろんこの後にはずっと谷崎の反論が続いている。
自分の相容れざるところは反論し、貫くべき主義がある場合は批判・批評はさっと切り捨てるか無視するのが、谷崎という人である。
しかし作品の出来、評判というものを、全く気にしないはずもない。
ことに読者あっての職業作家である。作家としての哲学はあろうが、その哲学が作品にかえって悪影響を及ぼしかねない場合は、熟考の上に変更を加えることも知っている人であろう。
一応人のいう言葉は聞く人である。
仏教のことについて、後に高野山に勉強に行った(昭和六年)ほどの人であるが、それもおそらく、大正九年一月『雄弁』掲載の「或る時の日記」に対する、読み手の反応が原因ではないかと思う。
東洋――主として支那――の芸術では、「美」を通じて「虚無」に到達することを目的とする。あるいは「虚無」が即ち「美」であると云っても差支えはない。
この文章を読んでいれば、この「虚無」が、仏教を想定して書いているらしいことがよくわかるが、明らかに間違えた認識である。この大正九年から、高野山に三カ月こもる昭和六年までの間に、自ら気付いたというよりは、こうして文章を公にすることによって、読者の中の専門人から意見を頂戴し、自分の考えを改めるということがあったのではないかということは、容易に想像がつく。
その可能性がなければ、この昭和への仏教に傾倒した作品群の存在に至り、自らの墓に「空」と刻ませたはずはないであろう。
そう考えると、昭和四年に掲載した「カフェ―対お茶屋・女給対芸者」で、読者、あるいは身近な人から、どれだけの拒絶反応が得られたかは、容易に想像できるような気がする。
だから設定は変えられた。
江戸初期の太夫なぞ、多くの人の知識にはない。
作品の中でくだくだと説明しても、その拒否反応はぬぐえない、いや、その先入観で作品を読めば、せっかくの一番大事な部分で効果を失い、作品をより低くみなされることもあり得るのである。
それは作家としては何としても避けたい。
そして、設定は変えられた。
――しかし後を残さずにはいられなかったのも事実である。
この「遊女」に視線を向け、民俗学を想定しながら彼の文学をさかのぼって行くと、彼の文学的思惟の跡が見て取れる。
「あなたは創作をしている途中で、いったい己は何の為めに骨を折ってこんな仕事をするんだろう。これを書いたところで何になるんだろうと、そんな気が起ることはありませんか。(後略)」
これは芥川の自殺の後、十数年前の芥川の言葉として谷崎が『饒舌録』で引用したものである。この言葉は『春琴抄後語』で、今度は自分が言った言葉として引用している。
聖書を枕元に置き自殺を遂げた芥川との、プロット論争を同じ『饒舌録』で展開した谷崎は、芥川の死後も、創作の中でその疑問と戦っていた。
その答えの道筋にあったのが、「古典回帰」「民俗学」、そして、「遊女」ではなかなったか。(2010.12.23)
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