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『梅忠』と新町の遊里*抜粋
石割松太郎
『大大阪』昭和四年十二月
(前略)
そして花街の組織は、遊女の置屋(くつわといふ)と遊女を呼んで遊ぶ家である揚屋又は茶屋とからなるが、この廓で揚屋となると、九軒と佐渡屋町、越後町にあつた。そのうちでも九軒は代表的な揚屋のあつたところ、夕霧の吉田屋、江戸屋勝次郎の遊んだのも九軒の井筒屋であるという風であつた。
(中略)
「天神」といふのは「太夫」の次の遊女、銀二十五匁がその揚代である。「二十五」といふ数が、北野の縁日であるところからの名が「天神」だ。この天神の又の名は「中位」「宋」「むら」「格子」などいつた。が、揚げ代からして「二尺五寸」と銭勘定をわざと避けて尺目でもいふのだが、後には揚代三十匁となつたから、「三尺」ともいつた、三十匁の揚代では「天神」の名にふさはしからぬことになつたが、権輿を重んじて、そのまゝ「天神」「梅」などは、変らずに呼ばれたのである。
これまでの「太夫」と「天神」の二職が、揚屋へ聘される資格を以つてゐる遊女であつて、以下は、揚屋へは上げなかつた、それらは「茶屋」へ聘ばれたのである。
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が時代が後になるほど太夫がどしどし殖えるのを見るとその位にならぬものまでが「太夫」の名を冒すことになつて、揚屋は上つても、太夫の品位は落ちる一方であつた。宝暦七年刊行の『みをつくし』といふ新町に関する文献によつて、揚代を調べると、太夫六十九匁、天神三十三匁、見世女郎二十二匁とある。
前に述べた「引舟」の起原は、彼の伊右衛門の情事を伝へる夕霧が京の島原から新町へ来てからの話で、夕霧が按じた制度であるより見ても、夕霧の全盛が思ひやられる。「夕霧」の話は、そのくだりで述べたいから、茲には、「引舟」の創制者であることだけを記しておく。
次が「囲ひ」である、「鹿恋」とも書くが、「十五女郎」と西鶴は表している。
(中略)
『冥途の飛脚』と時代が同じいから、これを引用するのが、一等の捷径であるが、本文の引用を省いて遊女の品目のみ、こゝに並べるとかうだ。
太夫、天神、囲(かこひ)、汐、影、月(ぐわつ)、白人(はくじん)呂州、お山、比丘尼、間短(けんたん)惣右衛門
の十二種類の遊女の品目があるが、「白人」以下の六種は私娼であるから、即ち「岡場所」謂ふところの「島場所」の「をんな」だから、この稿の進むにつれて、その折々に説明するとして、太夫以下の六種の遊女、即ち当時正徳年間に新町に稼ぎをつゞけた六種類のこの遊女についてのみ、こゝに説明をしよう。
「太夫」とは、廓で最上の遊女である。何故「太夫」といふかといふに「太夫」とは、「芸」に対する名称である。慶長年間までの遊女は、四条河原に芝居を構へて、能太夫舞太夫皆傾城が勤めた。傾城といふが、実は表芸は舞太夫であつた。乱舞仕舞の太夫であつたから、後には遊女の惣名となり、本廓が寛永年間に出来てからは廓の最上の遊女は、「太夫」と称けたのである。――といふのが『洞房語園』の説で、これが本とうであらう。
そしてこの太夫に「五三」といふ異名がある。これは、その勤めの銀が五十三匁といふからの異名で、「松の位の太夫」などゝと呼ばるゝのは、秦の始皇帝が、猟に出た時、俄雨にあひ松の下に、暫しの雨を凌いだので、「松」に太夫の官をなし給ふたといふ故事がある。鷺に五位の位を与へられたなにがしの帝の伝説と和漢の双璧だが、「松」に「太夫」の官があるところから、「松の位の太夫」とか、太夫を「五三」とか「松」とも呼んだ。又「上職」ともいふ、又唐韻の「上声」ともいつた。「左馬」ともいひ、「上官」「本位」「高体」などゝともいつた。
(後略) |